●尖閣諸島周辺の海域や空域で事故が起きるリスクが高まっている〔AFPBB News〕
「WEDGE Infinity」 2013年12月27日(Fri)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/3480?page=1
「靖国ではなく、南京に行くべき」:中国が仕掛ける反日歴史工作
「南京事件」を考える(前篇)
平成25年も押し詰まった昨日(12/26)、安倍首相が靖国神社を参拝した。
第一次政権時の「痛恨の極み」から7年、内外のあらゆる政治的要素を勘案したうえでの参拝だったと思われる。
予想どおり、中国、韓国からは激しい反発の声明が出された。
中国の王毅外相は、日本の木寺昌人駐中国大使を呼び、
「国際正義への公然たる挑発だ。
(日本側が緊張関係を激化させるなら)中国側も最後まで相手をする」
という、物々しい表現とともに、対抗措置もにおわせた。
が、むしろ筆者が注目したのは、その後の会見で出た秦剛報道局長の次の発言である。
「安倍首相がアジアの隣国との関係改善を願うなら、靖国神社ではなく、南京大虐殺記念館に行くべきだ。
歴史を直視する勇気がなく、戦後の国際秩序に公然と挑戦しておいて、自由や民主、世界平和と繁栄への責任を語る資格があるのか」
靖国神社の「カウンター」として、中国側は「南京虐殺記念館」をもち出してきた。
折しも師走12月、76年前(1937年)に南京陥落があった時期でもある。
秦剛報道局長の発言に“触発”されて勇気を奮うわけではないが、せっかくの機会なので、本稿では、いわゆる「南京事件」にまつわる歴史の「事実」をいま一度、直視し論考してみようと思う。
さらに、中国と韓国が連携して現在、北米で進めている「反日歴史工作」、とくに新手の「南京虐殺工作」との関連で今般の総理の靖国参拝を考えてみたい。
■果たして南京で「虐殺」はあったのか?
よく知る読者の方々にとっては退屈な復習となろうが、まずは「南京事件」に関して、事実とともにポイントとなるべき点を挙げていくこととする。
中国側はくだんの記念館で、
「日本軍は南京入城後、2カ月にわたり、30万もの人が虐殺した」
と宣伝している。
一方、東京裁判の判決文では、
「日本軍が占領してから最初の6週間に南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は20万以上」
とした。
しかし、この南京での「大虐殺」は、現場をしかと見た人、つまり証言の信憑性が検証され、
正当性が裏付けられた目撃者というものが一人も存在しない。
これは、「南京」を論じる際の最も重要なポイントで、はじめに押さえておく必要がある。
2カ月にわたって何十万もの人が虐殺されたという「世紀の大事件」であるにもかかわらず目撃者ゼロ。
こんなことがあり得るのだろうか。
しかも不思議なことに、この目撃者ゼロという重大なことに、日本のマスメディアは触れようとしない。
そのためか、南京で虐殺はあったものと頭から信じ込んでしまっている日本人が少なくない。
思えば、筆者が小学生だった70年代の日中国交樹立から、80年代の日中友好ムード最高潮の時期には、朝日新聞を中心にした日本メディア、そこに登場する「進歩的文化人」たち、さらには学校の先生らまでもが揃って、
「南京で日本軍は何十万もの中国人を殺した。
だから、中国に対してどんなに謝っても足らない。
日中友好のため日本は真摯に謝罪し続けなければならない」
と盛んに言っていた。
当時の言説の影響がいまも抜けない日本人がいまの50代以上には多い。
とはいえ近年は、多くの日本のメディアが、「南京事件については諸説ある」とは書くようになった。
しかし、この「諸説」とは、殺された人数について見解が分かれるという意味だ。
30万人が殺されたという中国の説、東京裁判での20万以上説、もっと少なく10万人という説、4万人説などがあるのだが、すべて「虐殺はあった」という前提に立った説ばかりである。
一方で、「南京事件はなかった」という完全否定説も以前からある。
が、これまた日本のメディアは触れたがらない。
まさに、メディアにとって、南京虐殺の否定は戦後最大の「タブー」であったようで、否定説を報道する「自由」や、この説を国民が「知る権利」をメディア自身が規制し続けてきたといって過言でない。
規制だけではなく、このタブーに触れた政治家はメディアの袋叩きに遭い失脚させられてもきた。
■「虐殺があったことにしよう」という蒋介石の指示
南京事件の目撃者ゼロということは、虐殺はあったのか、という疑問の材料となる一方、「虐殺はなかった」と主張する側にとって痛いことでもある。
目撃者がいないからといって、「なかった」ことの証明とはならない。
俗に、「悪魔の証明」などといわれるが、ある出来事が「なかった、起きていなかった」と証明することは不可能に近い。
1937年12月1日から38年10月24日まで、南京戦を含むこの約一年の間に、国民党中央宣伝部国際宣伝処(中華民国政府の対外宣伝機関)は、約300回もの記者会見を開いた。毎日のように会見があったことになるが、参加者は平均50名、うち外国人記者、外国駐在公館職員は平均35名であったという。
ところが、この300回もの記者会見において、ただの一度も、「日本軍が南京で市民を虐殺した」とか「捕虜の不法殺害を行なった」との非難がされていない。
戦時中とはいえ、もし一般人に対する大規模な「虐殺」や強姦が連日起っていたら、ただの一度も記者会見で話さないなどということがあるだろうか?
このことからも、虐殺はなかったのでは、との疑問が沸くが、この疑問を氷解させる史料が近年、日本の研究者、亜細亜大学教授の東中野修道氏によって見つけ出された。
南京事件の核心に迫ると思しき衝撃的な史料。
そのひとつが、蒋介石の「指示」を表わす文書である。
蒋介石は、日本軍が南京に入城する直前、城内から逃れたが、そのときに、
「ここで日本軍による大虐殺があったことにしよう」
との指示があったという内容だ。
これらの事柄は、東中野氏が、台北の国民党党史舘で発見した極秘文書『中央宣伝部国際宣伝処工作概要1938年~1941年』に残されていると、氏の著書、『南京事件-国民党秘密文書から読み解く』(草思社)に記されている。
実は、この文書発見以前から、南京陥落の後、120名近くの記者が日本軍とともに南京に入城したにもかかわらず、朝日をはじめとする当時の新聞報道、記者らの証言のなかで、虐殺事件の片鱗すら語られていないのはおかしい、事件はなかったのではないか、という主張はされていた。
この主張が、中国側の資料からも裏付けられたという点は大きいのではないか。
■市民の姿をした兵士を撃ったことは「虐殺」ではない
筆者は長らく、南京事件について個人的に興味を抱いてきた。
それは、1997年、故アイリス・チャンという中国系女性が著した『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』という本が、全米で大ベストセラーとなったことをきっかけとした興味であり、数年前にはカリフォルニアで生前のチャンに近い人物に会い、彼女の死の直前の様子を取材したこともある。
その興味と経験が昨年、とある仕事に結びついた。
昨年2月、名古屋の河村たかし市長が、姉妹都市である南京市の使節団との会談の席で、「(いわゆる)南京事件はなかったのではないか」と発言して物議を醸した件にまつわる仕事であった。
騒ぎが一段落した夏頃から数回にわたって河村氏から話を聞き、「騒動」の経緯をまとめる機会を得たのだ。
このときの「河村南京発言」の正確な内容は、
「事件(虐殺)はなかったのではないか。通常の戦闘はあったが」
である。
虐殺ではなく通常の戦闘行為――これも南京事件を考える際のもう一つの重要なポイントである。
実は河村氏、例の発言以前、名古屋市長になる前の衆議院議員時代から「南京」について、ひとかたならぬ思い入れをもっていた人だということはあまり知られてない。
歴史家から話を聞くだけではなく、元日本兵を訪ねての聞き取り調査まで独自に行なって、野党議員だった小泉政権当時、独自の調査の結果を踏まえ、「南京事件」に関する政府見解を具体的に質す、質問主意書を出してもいる。
市長となった後のあの「南京発言」は、思いつきや、口が滑った類のことではなく、
「南京と姉妹都市でもある名古屋の市長になったら、南京事件のことはやらにゃいかんと思っていた」
というくらい、明確な意図、意思をもってした発言であったのだ。
その河村氏が、南京入城当時を知る手掛かりとして注目したものに、南京にいた元日本兵の日記がある。
その一つ、梶谷元軍曹という人の日記には南京入城式の直後の様子が次のように書かれてある。
「(一時間あまりで)敗残兵二千名の射殺されたり」
「誠に此の世の地獄」。
2000名という人数は大きい。
この世の地獄と見えたのも無理もない。
が、撃ち殺されたのが、「敗残兵」であったなら、それは戦闘行為であって、一般人の「虐殺」にはならない。
■「便意兵」という中国独特の戦法
国際紛争を解決する手段の一つである戦争には厳然としたルールがある。
戦争とは、兵士と兵士の殺し合いであって、民間人を殺してはならない。
これが戦争の最も基本的なルール、犯せば罪に問われる。
だから、兵士はきちんと制服を身につけるなどして、遠くからでも兵士とわかるようにしなければならず、市民に化けて攻撃するというのは重大な「ルール違反」なのだ。
このことは日中戦争当時から同じである。
日記には、2000名射殺の際、
「十名ほど逃走せり」とも書かれてあった。
この逃走者らの話に、のちに尾ひれが付いて、「大虐殺」となった可能性が否定できないが、そうであれば、なぜ、「敗残兵」の射殺が「虐殺」となったか、が問題である。
考えられるのは、その敗残兵らが民間人の服装をしていたということである。
今日、このことは多くの識者が指摘しているが、当時の中国戦線では、「便衣兵」と呼ばれる、通常の服装をした兵士が数多くいた。
これに関する元日本兵の証言も多く、たとえば掃討戦の最中、一般市民の姿をした人を見かけたので声をかけると撃ってきたので反撃した、というようなものだ。
南京を含む当時の中国では、ゲリラ化した国民党の兵士がそこここにいて、「兵士」と「民間人」の境がとても曖昧になっていた。
このことが、「大虐殺」話に結びついた、あるいは結びつけ易かったということは十分考えられる。
■「南京事件」のネタ元は国民党宣伝部の顧問
では、そもそも、「南京で大虐殺があった」と最初に世界に向け発信したのは誰か、が問題だが、それはティンパーリという英国人の“記者”である。
彼が編集した『戦争とは何か』という本のなかに、「南京在住のある欧米人」の原稿が掲載されていて、これが南京虐殺のネタ元となったのである。
ただし、この原稿は、いまでいう匿名の密告投稿のようなものに過ぎない。
虐殺現場の目撃証言も、命からがら逃げ出した人の話もないにもかかわらず、ニューヨークタイムズ紙でとりあげられ、ほかのマスコミも連鎖的に騒いだために、いつの間にか「歴史的事実」のようになってしまった。
近年になって、このネタ元とされた原稿を書いた「南京在住のある欧米人」は、ベイツというアメリカ人宣教師だったと判明しているが、ベイツは、国民党中央宣伝部の顧問をしていた人物であった。
要するに、南京政府の関係者である。つまり、「日本軍が民間人を大勢虐殺した」という「匿名の密告」は南京政府側の人間が流した情報、南京政府のプロパガンダだったという可能性が否定できないのだ。
余談だが、この国民党中央宣伝部にはかつて毛沢東も在籍していた。
毛は、のちに国民党と敵対した共産党の指導者だが、それ以前、国民党中央宣伝部でプロパガンダの手法を学んだといわれている。
今日は多くの日本人が、中国政府のいう「歴史」の多くが史実に基づくヒストリーではなく、彼らの政治的意図に沿ったプロパガンダであることに気づいてきたが、共産党独特の手法と思われがちなこの中国式プロパガンダの基礎の一端が、国民党にあったというのもまた興味深い話である。
戦争にウソはつきものだ。
それは、日中戦争に遡るまでもなく、近年の「イラク開戦」のいきさつ一つを見ても明らかなことである。
戦時だけではない。
常時でも、国際政治にウソはつきもの。
当然、日中戦争や先の大戦時にウソの情報を流していたのは日本の大本営だけではない。
そう思って日中戦争、先の大戦を見直すと俄然、すべての様相が違って見えてくるはずである。
ところで、当時の南京を「知る者」として、ティンパーリはじめ、何人かの欧米人が挙がっているわけだが、中国は近年、そうした欧米人の一人を顕彰する銅像を建てる活動を米国で展開している。
ほかに、米国の高校生らに、南京虐殺にまつわる中国のプロパガンダ満載のテキストで学ばせる工作をも展開していて、この影響は深刻だ。
その実態については次稿でくわしく述べることとしたい。
有本 香(ありもと・かおり) ジャーナリスト
企画会社経営。東京外国語大学卒業後、雑誌編集長を経て独立。近年とくに中国の民族問題の取材に注力している。『中国はチベットからパンダを盗んだ』(講談社)『なぜ、中国は「毒食」を作り続けるのか』(祥伝社)の他、近著に『中国の「日本買収」計画』(WAC BUNKO)がある。
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