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●ホーチミン廟(上)とその前の広い道路(筆者撮影)
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JB Press 2013.12.20(金)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/39489
中国と接する「小国」ベトナムのリアリズム「ホーおじさん」の教えてくれたものとは
ベトナムのハノイに来ている(12月13日記)。
街にはイナゴの大群のような、あの無数のバイクが群れて行く。
ベトナムにしては、それなりに寒い冬の季節に入ったところだが、人々は陽気そのものだ。
南国はよいところだ。厳冬の北京を経てハノイに来てみると、素直にそう感じる。
それは筆者の気分だけではない。
なにしろ、日越関係は絶好調なのだ。
その証拠には、この12月10日の夜に在ベトナム日本大使館主催で行われた天皇陛下誕生日レセプションでは、ホテルの会場を埋め尽くさんばかりの人だかりだった。
ベトナム側の主賓として、ベトナム共産党の政治局員でもある副首相が壇上に上っていた。
こうした日越関係の最も大きな部分には、ベトナムへの日本からの投資の拡大がある。
ベトナムへの日本企業の投資額は、2年連続で1位になる様相だ。
一方、レセプション会場には、多くのベトナムの軍関係者の緑の軍服も目立っていた。
ベトナムの軍人たちも、熱い視線を日本に送っている。
なぜなら、11月23日に中国によって突然発表された東シナ海における防空識別圏は、ここハノイでもずいぶん注目を集めているからだ。
■「日本とベトナムは事実上の同盟国」
今回、筆者がハノイに来た1つの大きな理由は、最近の中国をめぐる地域の情勢についてベトナムの有識者と意見交換をするためである。
早速、強い関心を示されたのが、中国による防空識別圏の話であった。
筆者のあたう限りの知見をベトナム人知識人と共有することとなった。
そのせいかどうかは分からないけれども、一昨日などは、ベトナムの中国専門家の1人から、「中国の台頭を前に、日本とベトナムはもはや事実上の同盟国である」と言われることとなった。
さらには、別の東南アジア研究の年配の専門家からは、
「今の状況は日本にとっての大きなチャンスなのだから、我々とともに大きく前に出なさい」
と諭されてしまった。
共産党に属すると思われる人々から「同盟国」と言われるのも、よく考えると不思議な話である。
しかし、それほどまでに、東シナ海と南シナ海に関して日本とベトナムの重なる問題意識が、両国を急速に近づけてきているということなのだろう。
■冷静に把握している中国共産党支配の脆弱性
それにしても感心したのは、ベトナム人の中国に関する知見である。
筆者がハノイで会った1人のアメリカ人外交官などは、アメリカ人の中国専門家をベトナムに連れてくると、皆感心して帰国するという。
ベトナム人の中国理解は、「漢字を読めない」アメリカ人専門家を唸らせるという。
なぜなら、やはり同じ共産党が統治するベトナムだけに、
中国共産党による公式文書の意味合いを正確に理解できる能力がある
からである。
これに加えて、隣国、中国と歴史的に長くつきあってきた経験知は、歴史の浅いアメリカ人の比ではない。
こうしたベトナム人知識人との対話は有意義であった。
日本の中国専門家と変わりのないレベルの議論が容易にできたからである。
彼らの現在の中国に対する見方は、おおよそ次のようなものだ。
★・中国の内政は、大きな矛盾に直面している。
汚職問題であれ、環境問題であれ、国民の不満が渦巻いている。
★・その結果、中国共産党指導部は、こうした内部矛盾から国民の目を逸らす政治的な必要性を強く感じている。
★・だからこそ、今回の防空識別圏の設定は、対外的な脅威を煽る上で、大きな政治的な意味合いを有している。
★・従って、防空識別圏が巻き起こした国際的な批判如何にかかわらず、対外的な脅威を国内で強調できたことは、中国共産党にとって一定の成功とも言える。
★・中国は、何もないところに噂をたて、紛争を意図的に作り出し、力の用意ができたところで、他者から奪い取るのが常である。
中国は、東シナ海でも、南シナ海でも長い時間をかけて、自らの目的を実現しようと意図していることは間違いない。
ベトナム人の中国に対する見方で特徴的なのは、やはり、中国共産党支配の脆弱性をよく分かっていることである。
また、これまでベトナムが中国に痛めつけられてきた豊富な歴史的経験を基に、中国の対外政策を冷静に見ていることも特筆される。
さらには、中国に対する東南アジア諸国の対応についても、ベトナム人はやや苦々しく見ている。
とりわけ、カンボジアやラオスといったベトナムの隣国が、中国の経済的魅力に追随していくことを、決して快く思っていない。
こうした一部の東南アジア諸国の動向を懸念して、ベトナム人は、
「今回の中国の防空識別圏の試みは、米国や日本の出方を中国が試しているのだ。
同時に、東南アジアの国々も、米国や日本がどう中国に対して出るかを見極めようとしていることを忘れないように。
なぜなら、日米の動きは、東南アジア諸国に大きな影響を与えかねないのだから」
と、注意を促してくれた。
■ベトナム人のリアリズム
もう1つ、興味深かったのは、「ベトナムの国力は小さい」とベトナム人がこともなげに言うことである。
アジア的な謙遜というべきなのか。
このところ、中国による尊大な力の誇示に、いやというほどのウンザリ感を感じている日本人にとっては、ベトナム人のこのようなさりげないものの言いように、逆にドキリとする。
より正確に解釈するならば、中国や米国に翻弄されてきたベトナムの歴史があるからこそ、ベトナム人は自らの立ち位置を正確に理解しているということなのであろう。
50万人を誇るベトナム陸軍ひとつをとっても、この地域で最強の精鋭部隊と言われており、その練度は相当高いというのだから、ベトナム人の謙虚なリアリズムは見逃せない。
とりわけ、南シナ海をめぐるベトナムの巧妙な外交と、着実な抑止力の構築努力は、実にしたたかである。
日本でも、東シナ海における中国の防空識別圏に関して、ベトナムが「深い憂慮」を表明したと報じられたところだが、実はそれほど単純ではない。
現在のベトナム外務省の正式な表現は、
「東シナ海での情勢と関係者の懸念について、強い関心をもってフォローする」
という言い方になっている。
当初のベトナム外務省の記者会見では、「深い憂慮」という表現が実際に使われたのだが、その後、上述の表現に修正されたようである。
この背景には、第三国の問題であえて「言挙げ」することは、極力回避しようという知恵が見られる。
これは、他の東南アジア諸国にも多分に見られることだが、ベトナムも例外ではない。
1200キロメートルもの長さの国境を有する中国とベトナムの関係には、東シナ海が隔てている日中関係とは質的に異なる複雑さがある。
そもそも、同じ共産党が支配する中越両国の関係は、形式的には、「包括的かつ戦略的パートナーシップ」関係にあり、「戦略的パートナーシップ」に留まる日越関係より、一段上のレベルにあるという。
だからこそ、形の上では良好な中越関係を維持しつつも、同時に、静かに抑止力強化を図ろうというのがベトナムのやり方である。
例えば、海軍に関しては、静寂性に優れるキロ級のロシア製潜水艦もベトナムに到着しつつある。
また、空軍についても、スホイ30といった第4世代以上の最新型の戦闘機を着実に増強する方向にある。
また、ロシアにこれまで依存していた武器調達も多角化する方向で舵を切っている。
さらに言えば、米国に対する見方も、ベトナム人のリアリズムの重要な中核にある。
例えば、1979年2月の中越戦争は、その戦争発生の数週間程前に、鄧小平が訪米し、カーター米国大統領と会談したその直後に起きているからである。
米ソ対立の冷戦時代に起きた戦争とはいえ、ベトナム人は、米中国交回復、そして中ソ友好同盟相互援助条約の廃止という、大国間のディールの影に翻弄された「小国」の苦々しい経験をけっして忘れてはいない。
80歳を越える古老の元ベトナム人外交官が、
「中国を警戒するのは当然だが、米国の動きを見極めることが一層重要なのだよ」
と言いつつ、中越戦争とその後の中越国境画定で苦労した思い出話を、先祖を祀るベトナム式の神棚がある自宅の居間で、訥々と語ってくれた。
ベトナム人は、米国と中国という大国間のやり取りが、小国である自らの運命を容易に左右しかねないことを、歴史的な肌感覚としてよく理解している。
■ベトナムの弱点は監視能力の欠如
ベトナムにも弱点は多々ある。
とりわけ、レーダー監視能力が極めて脆弱なことである。
これでは、残念ながら、南シナ海で何が起きているかを正確に知ることはできない。
ベトナム人はよく、中国人民解放軍がベトナムに攻め込むことがあれば、これを撃退することができると言う。
中越戦争の経験に基づく自信の現れなのであろう。
しかし、南シナ海をめぐる紛争は、陸上での戦いとはその性質が異なるのである。
ちなみに、先ほどのレセプションの場で、寿司バーの前での長い行列に待ちくたびれて、筆者の前にたまたま立っていた人物と知り合いになった。
日本で30年以上も航空管制を担ってきた管制官であった。
JICA(国際協力機構)の専門家としてベトナム航空当局の指導にあたっているという。
彼によれば、ベトナムの航空当局も、日本の航空当局と比べれば十分なレーダー能力がなく、そのキャパシティ・ビルディングは、ハード面でもソフト面でもなかなか大変だという。
東シナ海と南シナ海の1つの質的な差異は、どれだけ監視の目が行き届いているか否かにあるが、ベトナムのこうした監視能力の欠如は、その一端を如実に物語っていると言えよう。
この点で、JICAが日本の管制官を派遣してベトナムの航空当局を支援していることは、あまり世間には知られていないことかもしれないが、中国による防空識別圏問題が持ち上がる中、航空安全の確保の観点から、実に先見の明のある試みだ。
日本とベトナムの間の「戦略的パートナーシップ」の最先端の協力にかかわる象徴性すらある。
現在、日本とベトナムの間では、ベトナムの海上警察に対する巡視船の供与の可能性についても議論が進められているところだが、東シナ海で発生していることが、遅かれ早かれ南シナ海で起きると考えるならば、こうした日越協力は、これまでにない重要性をもつことになるだろう。
ちなみに、数人の目先の利くベトナム人有識者が、将来の南シナ海を見据えて、日本の有している「E2C」や「P3C」といった早期警戒機にも強い関心を有していたことは、付け加えるまでもないかもしれない。
■「ホーおじさん」が残した「空白」の外交術
さて、最後の日になって、ベトナム人有識者に、中国との関係をベトナムはどのようにマネージしているのかと率直に尋ねてみた。
ベトナム人の答えは、結局、様々な協力関係を構築することが重要であるということだった。
これならば、日中関係を考える場合とも、さして大差のない結論である。
ベトナム国民の間では、ベトナム人は中国人を信頼していないと多々言われる。
だが一方で、ベトナム共産党指導部においては、必ずしもそうではないという。
例えば、幾人かの政治局員には、中国側の影響もあるという。
当然ながら、中国共産党との関係をマネージできないようなベトナム共産党幹部は存在しない。
そのような人物が万が一いたとしても、ベトナム共産党指導部には入れないだろう。
その意味では、統治構造の共通性が中越関係の基礎にあるということなのだろうか。
そもそも、社会主義を掲げながら、ドイモイ政策によって市場経済を導入してきたベトナムは、安全保障面においても、今、隣国の大国である中国との伝統的関係と、日米との新たな関係を改めてどうバランスさせようとしているのだろうか。
そんな疑問を抱きながら、空港へ向かう道すがら、少しだけ街を観光してみることにした。
あの有名なホーチミン廟ぐらいは見ておこうと思ったからだ。
それに、何人ものベトナム人にホーチミン思想とは一体何なのだろうと尋ねても、一向に要領の得た回答がなかったこともある。
ホーチミン廟を訪れれば、多少のヒントが得られるかも知れないと思ったわけである。
ただ単に広いホーチミン廟の前にしばらく佇んでみると、その広大な空白こそ、ホーチミン思想そのものではないかと思えてきた。
自らの思想を何も語らなかったがゆえに、マルクス・レーニン主義と並んで、現代のベトナム共産党思想の機軸となった、いわゆる「ホーチミン思想」とは、「ホーおじさん(ホーチミンに対する国民の愛称)」が、その死後、ベトナムに残した「生き抜く」ための知恵の名残なのかもしれない。
ベトナム自らの繁栄のためには、ベトナム共産党といえども、イデオロギーにすら最後は固執しないといった、仏教でいうところの「空」に近い、果てしなく、しなやかな考え方こそが、ベトナム外交の最も奥深いところにあるのではないか。
そして、日本と同じように、大乗仏教に加えて、儒教や道教、そして民間信仰を入り混じった形で信仰するベトナム人の対中外交の知恵は、きっと深い部分で私たち日本人も共有できるに違いない。
4日間にわたって、ベトナム人といろいろと喧々諤々議論した後で、ようやくベトナム人の有する暗黙の知恵をもう少し学びたいと思った。
帰国直前に訪れたホーチミン廟の前で、私にふとそんなふうに思わせたのは、きっと南国の柔らかな風のせいなのだろう。
(本稿は筆者の個人的見解である)
松本 太 Futoshi Matsumoto
世界平和研究所 主任研究員。東京大学教養学部アジア科 昭和63年卒。外務省入省。OECD代表部書記官、在エジプト大使館参事官、内閣情報調査室国際部主幹、外務省情報統括官組織国際情報官等を経て、平成25年より現職。
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